ADHD、アダルトチルドレン、愛着障害、鬱で苦しんだ末に見つけ出した回答(完)

記事の要約

表題のことでずっと生きづらかったけどなんとなく前に進めるようになってきたので最後に整理するための記事

前回の記事がかなり回りくどい書き方をしているのでこの記事は主観的に書きたい。

■前回の記事
donbeitabetai.hatenablog.com

現状を一言で言うと「幼い頃に無条件の愛情を体験していない」ことからくる欠乏感、寂しさ、甘さを捨てて「周りからの要求に答えること」と「自分のしたいこと」のバランスを取りながら一生懸命取り組んでいる。
まぁしっかりした大人は皆やっていることである。

結局なんで生きづらかったのか

⇒幼い頃にありのままの存在を認めてもらえなかったから

ここでいうありのままの存在を認めてもらえないとは、相手の要望通りにならないと攻撃的な反応が返ってくるといった意味である。

「無条件の愛情がもらえなかった」、「愛情に条件がつけられる」とも言いかえられる。

思い返すと親の顔色ばかり伺ってたような気がする。

何故なら父親は自分の思い通りにいかないと不機嫌になって無言になったり母親はヒステリックになって罵倒してきたりしたから。

ずっと気を使ってたしビクビクしてた。

小さい頃に親から嫌われるなんて子供にしたら死に直結する話で「親の要求(≒周りの要求)に答えられない=死」が無意識に刷り込まれてしまったんだと思う。
majikuzu.doorblog.jp

その意識がずっと残っていて親以外の人と関わるときも「周りの要求に答えられないと気持ちがしんどくなる」、「自分のしたいことが素直に伝えられない」、みたいな精神的な不安定さに繋がってたんじゃないかな。

正直、今でも周りから否定的なことを言われたときには吐き気を感じるほど凹むけど昔に比べたら立ち直りは早くなっている。

これは前回の記事でも書いたように、色々勉強したことで「条件をつけなくても別に生きていい」という考えが生まれたからだと思う。

この考えが幼い頃にもらえなかった「無条件の愛情」の代わりに傷ついたときの支えになってる感じがする。

親からの悪影響

無条件の愛情を受けていないことからの欠乏感

無条件の愛情を受けていないデメリットは「自分の存在に条件をつけてしまう」だけではない感じがしている。

「親から認めてもらえなかった欠乏感を他の人からもらおう」としてしまうのだ。

それが時に「傲慢で自己中心的な行動」に繋がったり、「大したことのない相手の我儘が無性にストレス」に感じてしまうのだ。

感覚的には""急に自分の思い通りにならないことに耐えられなくなる""といった感じ。

当たり前のことだけど他人は昔のことなんか知ったこっちゃないので「気持ちの悪い人」と思ってるんだと思う。

「他人は基本的に与えなければ何も与えてくれない」という前提が抜けているのだ。

欠乏感への対処法は、その前提を知った上で相手に配慮した行動を取ることだと思う。

理不尽なことだが無条件の愛情は、本当に何も出来ない小さい頃に母親からもらえるもので、その期間が過ぎると基本的にはもう誰からももらえないのだ。

だからそこから生まれる欠乏感、寂しさ、甘さは諦めたほうが健全だし、自分の能力成長にも繋がる。

何もしていないのに認めてほしいと求める感情は邪魔でしかない。

主体性が損なわれてしまう

自分の親は傍から見たら良い親だと思う。

食事も毎食作ってもらってたし旅行にもよく連れて行ってもらった。

でもそういった愛情はあくまで親がやりたいことという偏りがあった。

友達とご飯を食べに行くといったらあからさまに不機嫌な態度を取られ、旅行も自分が行きたかった工作教室やゲームの大会には行けず、親の行きたいところについて行くといった感じだった。

幼い頃に「親のいうことを聞くなら甘えられる状態」が続いたことでどんどん主体性がなくなり、その分他力本願な人間になっていったように感じる。

宿題は他の人に答えを見せてもらい、与えられたタスクからは逃げる、こうした細かいことが人生レベルで積み重なり、スキルの低い自信がない人間になってしまう。

まぁ自分の場合は時々逃げずに頑張ったから首の皮一枚繋がっている感はある。

プライドが高い

ここでいうプライドが高いというのは自分が優れていると誇示してしまうといった意味である。

スキルの低い自信がない人間がプライドが高いというのは矛盾しているように感じるが、自分の場合は寧ろ「自信がないから自己防衛の(自分の存在価値を守る)ためにプライドが高くなる」といったものだった。

このような人間が陥りがちなことが「自分は何もしていない、出来ないのに誰かを馬鹿にして仮想の優越感に浸ってしまう」ことだ。

似た例を出すならTwitterで全方位に攻撃的な人、有名人の不祥事に過剰に攻撃的な人みたいなイメージだ。

その馬鹿にするにも主体的な意見、建設的な指摘があれば良いがそういったこともないことが多い。

何故なら自分が出来ないことを馬鹿にして優越感が得られれば良いので別に内容は意味をなさないからだ。

このデメリットは自分が馬鹿にしたことが自分自身で出来なくなること。

「ハロウィンで仮装するなんて流行に流されているようでダサい」、「大人になって趣味がゲームだけなんてキモい」

そうやって馬鹿にするものが増えて息苦しくなって何も出来ない人になってしまう。

親にもそういった部分があった。

大学に行くと伝えたときにはお前なんかが行かなくて良いと言われたし、経済の勉強をしてるときにもそれなんの意味があるのと貶めてきた。

前回の記事でも書いたが、

親がやりたくても"我慢"せざるを得なかったことを子供にも強要して一緒に不幸になろうとしたと自分は考えている。

意味のない貶めに迎合しては駄目なのだ。相手せずに心の中で中指を立てないといけない。

親について

親には今までずっと気を使って辛かったこと、正直もう関わりたい気持ちがなくなってしまったことを伝えた。そうすると母親は愛情の注ぎ方が少し間違っていたのかもしれないと言った。

父親とはしっかり話せていない。中学生以降まともに会話したことがないのでどう話をしたらよいかわからないのと、漠然とした父親への怖さがあり深くは伝えられていない。前に一度辛かったと打ち明けたときは「そういうもんだ、俺も幼い頃辛かった」と言っていた。

そのあと初めて聞かされたが父親も幼少期の家庭環境が複雑で、母親も親からあまり褒められたことがないそうだ。

また祖父母も幼少期に苦労していたそうでなんか凄く人生を感じた。

しかし話は結局のところ「親の性格だから仕方がない」、「歳を重ねれば慣れてくる」、「占いによると30代から運気が来る(??)」とはぐらかされる感じで締めくくられ少しイライラして終わった。

気持ち的にはまだ消化しきれていないが客観的に思ったことは「親も幼少期に理不尽な目にあってそのことを引きずっている」んじゃないかってことだ。

自分が感じていた生きづらさを親も感じていて、その中で一生懸命生きてきたのだ。

そう考えると自分としては""親にもっと自分の話を理解して欲しかった""とか""察して感というか受け身のコミュニケーションは親としてどうなの""と思うところはあるが、衣食住は与えてくれたので親としては出来る限りのことはしてくれたのかもしれない。

そのことに関しては感謝している。

精神的に未熟なままで結婚し、子供への配慮が足りていなかった。と結論づけた。

酵母マンさんの言葉でいうと、毒親まではいかないけど塩親だった。

note.com

そんなことがあり、今の親に対する思いは「関わりたいとは思わないけど、もし経済的に困っていたら援助する」である。

話を聞く限り親も未だに幼少期のトラウマを引きずっているようにも感じるが、精神的な面倒までは見ない。

最後に

ここまで親のことを散々言ってきたが、最近は自分の人生の上手くいかない部分を親のせいにしても仕方がないと感じている。

過去の数々のトラウマの根源は親との関係によるものだけど、そのトラウマたちは紛れもない過去の自分が引き起こしたことで根源の理不尽さも含めてそれらを受けれた方が良いなと思えてきた。

個人的にはトラウマって受け入れても受け入れなくてもどっちでも良いと思っている。

人によってトラウマの度合、加害と被害の分量は違うし、無理に掘り返すことが精神的に良くない人だっていると思う。

自分の場合はトラウマを受け入れたほうが良いと思ったので、前回の記事で紹介した感情ノートで過去のトラウマを整理したり(今はしてないけど)、トラウマがフラッシュバックしたときは逆に思い出してあげるようにしている。

この「逆に思い出してあげる」という方法はある質問箱を見て最近気づいたことで、どうしても思い出してしまうならそれを受け入れてあげようというもの。

そうするとフラッシュバックすることも気にならなくなってきた。

先日のツイッターの使い方に対するご回答に感銘を受けました。 | Peing -質問箱-


このトラウマを受け入れていくメリットはトラウマの対処に使っていたエネルギーを他のことに使えることだ。

これは自分の感覚でしかないんだけど過去に抑圧された欲望(トラウマ)を受け入れるというかある種諦めることでそこに使っていたエネルギーが浮く感覚だ。

心理学のキーワード的には自我とかESとかが関連してくるんだろうけどよくわからない。とりあえずそういうことだ。

体的にも疲れにくくなった気もする。

この受け入れる考え方は他のことにも使える。

例えば自分の生きづらさはADHDとかASDHSP発達障害といったラベリングが出来るが、これはある意味自分の特性を否定していることで、否定せずにこの特性を前提として生活を考えると良いエネルギーの使い方が出来る。

例えばADHDでいうと過集中は上手く使うと作業がすぐ終わったり、ASDは一人の時間が沢山出来るとかHSPは気遣いが出来るようになるとかである。

昔はこうしたラベリングが気になっていたけど、特性を理解すれば特に生活に支障がなく必要がないなと思っている。

特に最近は社会情勢も悪くなってきたので基本的にラベリングで援助を受ける考え方は期待が出来ず、デメリットが多いように感じる。


今後についてだが前回の記事でも書いたように引き続き"「役に立たなくても生きていい」の感覚を持って社会的スキルを磨き、経済的自立を続けようと思う"

ただ一点前回の記事で間違っているなと思うところがあって、人間関係はどうやっても避けられないし最低限の気遣いは必要だなと思っている。

話していて相手を不安にさせないくらいの気遣いはしたいって思えてきた。

ユングの考え方でいうとペルソナを発達させるとかになるのかな。

あと主体的な部分でいうと音楽は引き続き作りたいと思っている。

今は別アカで作ってるけど曲に反応があるとやっぱり凄い嬉しい。

追記:これは主体性ではなく趣味だね。主体性とは求められることを選ぶこと。

今後もこの「周りからの要求に答えること」と「自分のしたいこと」のバランスを取りながら頑張りたい。

最後にまとめきれなかった雑記を貼り付ける

PS この本良かったよ

雑記

 家族という自我欲望のために過保護をした
  昔過保護になり家族に奉仕しないと存在を認められなかったからそれに従わないと存在不安になる。だから自分も過保護をしてしまった
 子供の主体性、能力が低くなり自我欲望が家族、お金など普遍的なものになった
  過保護の中で自分の望み通りにならないと子供を貶めてしまい、子供の主体性、能力が低くなる≒信じる力が低くなる
 現実と向き合う努力をせず、社会に与えられた自我欲望に奉仕することが主になった
  主体性、能力が低いので怯えて現実と向き合うことが出来なくなる
そしてそれが世代間で繰り返される
⇒自ら自我欲望を見つけて現実的な努力をすれば良い
その上で家族を自我欲望にして努力しようと思うならそれも良い
しかし社会に与えられた自我欲望に奉仕する形で無責任にその道を選ぶと世代間で悲しいことが繰り返される


社会ではスキを見せない

「いろいろな人に関わっていても揉めない秘訣ってなんですか?」と聞かれることが多い。答えは簡単で「1つ1つ確認を取る」こと。これぐらいいいだろうとか自分だったら許してもらえるだろうという傲慢さがトラブルを生む。のびのび過ごせるのは自分の家だけ。あとは余所者だという自覚を持ちましょう



信用しないと決意することでもし信用関係があれば幸福という幻想を守ってるんじゃないか

実世界ではそれに関係なく優しい、信用できる人はいるし幻想通り信用出来ない人もいる

あるものの価値を、何らかの存在とその価値を信じているわたしの関係と捉えたときに、現実主義者の中では「わたしが信じる」という主体性の比重が失われる。しかし現実主義者は、自分が「信じていない」ことに無自覚であるために、対象が自分にとって価値のないものと感じられることをそのまま「対象には価値がない」と誤認する。これによって現実主義者は、自分では何にも価値を感じることができず、他人の所有物やそれに対する愛着に羨望が向くことになる。



自分のことを信用できない人は他人のことも信用できない。人は裏切るもの、たくらむものだと思ってしまう。他人の中に見るのは自分の姿

共同幻想、現実として認識するのは自分の解釈しだい

自分の主体性、つまり他者に何をして、どう関わろうとしているのかを見失い、他者に幻滅し、関わりを絶とうとしている人物の関係性は図のBのように変化する。他者に期待できなくなったわたしは、もはや自発的に他者に干渉することを諦める。そうすると他者はわたしを置き去りにし、わたしはますます忘れられ、透明人間のような存在になってゆく。無気力や無感動はこのように、わたしが他者(世界)と関わる主体性を失い、それによって他者(世界)もわたしとの関係を失うという双方向的な影響によって加速する。

他者や世界に対する諦観が極度に高まったこの人は、もはやわたしがどのような接触を試みても他者はわたしを拒否するだろうという絶望的な予感に覆われる。世界と断絶されてひとりきりになり、わたしなしで回転し続ける世界から取り残されてしまう。

一方で、誰かを信頼できる人は、相手が裏切ることなどまったく考えもしないような態度でいるので、その相手も自然に信頼に答えようとし、誠意のある態度を取るかもしれない。この人もまた、自分が影響を与えていることには気付かない。

親は人、子供を信用出来なかったんだな

だから過干渉だったりネグレクトだったんだ



現在の自分を肯定的に捉えられれば過去を許すことができる

肯定出来ないと過去のトラウマなどの理由づけが必要になる



不安について

不安感強いのでストレスに弱い

人に対する根源的な恐怖 積み重ねた抑圧、否定、生きていることへの罪悪感(周りからのお前は邪魔、生きてはいけない⇒親が弱くあって欲しかったことによる後遺症)

人生の問題を大きく考えてしまう(死を考えすぎてしまい大きな不安に耐えきれない)ことで目の前の小さな問題が意識に入らなくなる

自分で価値判断が出来なくなっている

先のことはどうしようもないので今のことだけ考える

これが「些事の逆説」である。私たちがいちど大問題に拘うと、些事は無意味な問題に成り下がり、些事の積み重ねはかえって大問題となって跳ね返ってくる。


人生の負債について

結局負債に向き合うことが現実に向き合うことの逃避先になってる感覚がある

育ちから「ダメな自分だから生きて良い」と密接に自我に結びついているため幸せだと落ち着かず、自ら不幸になろうとする

幸せになることを考えるより不幸になるのが簡単であることもある

ダメな自分を変えることへのサンクコストがある 負債と割り切って損切りする必要がある

間違った決断にメリットを見出そうとして時間、労力を消費してどんどん負債が貯まること

反復強迫: 不安を繰り返すことで自分はダメだと間違ってなかったと証明しようとすること

先延ばし癖のある人間には[* 「嫌なタスクへの着手が難しい」(育ちが死に近かったため、不安感が強くストレスに弱いのでこなせる自信がない、傷つくことが怖い)]タイプと、[* 「何か気なるタスクがあるとそれを終えるまで何も手につかなくなる」(完璧主義からの不安感で気になってしまう)]タイプの2種類いるんだけど、その2つが合わさると「嫌なタスクを先延ばしにするも、それが頭に引っ掛かり続けて永遠に何も出来なくなる」生物が誕生する

嫌なタスクを死や老後などデカいものにしてしまうと最悪

人生レベルで負債が積み重なる



対人について

過去のトラウマを未だに認められなくて自分を攻撃する

過去の存在否定した相手に攻撃するためにコミュ障だったり、白痴だったりその理由と思われることを攻撃する

相手はもういないから自分の中に取り込んだ仮想に攻撃する、恨んでいる

出来ない自分を卑下するのもこれ

⇒コミュ障、出来ないことを許容すれば良い

願望、抑圧を投影して相手を攻撃する

押し付けられた願望、本当の願望への抑圧を認められなくて攻撃するために他者に転嫁している

無条件の愛情で自分、相手の不完全さを許容してあげることが大事

メンヘラには弱い人間を求めている人しか近づいてこない

[* 弱さを見せて防衛する弱いコミュニケーションしかできない、弱みを見せても弱い人間を求めている人しか近づいてこない]

弱く見せても舐められるだけ

上辺のコミュニケーションしかしてこなかったんだろうな

親が上辺のコミュニケーションを求めていたから

幼い頃に信用を裏切られたことが元となり裏切り続けられたことで傷が深くなってしまい防衛のため上辺だけで信用しようとしない

相手から信用出来る部分を見せられると気持ち悪くなる≒裏切られるとどこか安心する

信用されると裏切れない、信用すると裏切られる恐怖が出来る

気遣いをサボれるというメリットがある

共感力の欠如、他者への興味の低下に繋がった



人は常になぜ生きているのかという存在不安を抱えており、それを克服しようとする≒死が怖い≒死を理性が克服しようとしている

過去のトラウマだったり、物欲、他者承認で克服しようとする

なにかを特別にして支えにしてる

不安が大きい人は大きな支えが必要になる

足りない部分は非現実な妄想で補う必要がある

不安を小さくして日々の達成で満足し続けることが健全



ダメな自分を変えることへのサンクコストがある 負債と割り切って損切りする必要がある

反復強迫: 不安を繰り返すことで自分はダメだと間違ってなかったと証明しようとすること

以前にあった関係の印象が他の対象に投影される現象を転移と言う。親に依存している幼児にとって、親が機嫌をそこね、わたしを愛さなくなるということはそのまま生命の危機を意味している。そこでどうにか保護者の気を取り繕って生き残らなければならない、という危機管理マニュアルが生成される。そのマニュアルは一種の条件反射のように無意識下で管理されていて、容易に自覚することができない。



親は過干渉(弱くあることを求められた)だったり、過保護(親が傷つくことを恐れて制限、役割を奪われる)、自分勝手に振り回されたり、ネグレクトされたため、他人が信用できなくなってしまった

虚無って自分の意思を持てなくなった伝えられなくなった(ネグレクト、内部外部の分裂に繋がる因子)

自尊心を傷つけられることを否定出来なくなった(自分が信用出来なくなる)

死への意識が強くなり(対人)不安感が強くなってしまった≒能力が低い(自発的に人と関わろうとしない)

親は他者との関わりの中で上記の事象がどんどん強くなっていった(反復強迫

子供にも反復強迫≒サンクコストによる失敗の再現、内部の幼稚な部分の暴走により同じことをした

結果負の連鎖に繋がる



子供の頃に気遣ってもらえなかったことから生まれた寂しさ、プライドを捨てて人に優しくする、与える



「好かれたい」「誤解されたくない」と思ってする行動はつまるところ私欲。嫌われたままでいいし、誤解されたままでいい。極論、気付かれないままでいい。下心は見抜かれる



対人について

過去のトラウマを未だに認められなくて自分を攻撃する

過去の存在否定した相手に攻撃するためにコミュ障だったり、白痴だったりその理由と思われることを攻撃する

相手はもういないから自分の中に取り込んだ仮想に攻撃する、恨んでいる

出来ない自分を卑下するのもこれ

⇒コミュ障、出来ないことを許容すれば良い

願望、抑圧を投影して相手を攻撃する

押し付けられた願望、本当の願望への抑圧を認められなくて攻撃するために他者に転嫁している

無条件の愛情で自分、相手の不完全さを許容してあげることが大事



人は仲間と思えない人には冷酷である



現存在とは個としての人間のこと

人は様々なことで関係性を求められておりそれに応対することが本来性の生き方

自分は反復強迫により人間関係の応対に答えられていない



カスが平気で生きてるので悩む必要なんてないでしょ



(過去が)一個なくなったら今じゃないから

歪な過去があるから音楽が出来るって部分もあるんだよなー



理性の自分が他者に媚びて自分をイジメるのを止める

唯一の味方がイジメてどうする



気が乗らなくてもなんかすることが鬱防止

無条件の愛情について

ふと気になる記事を見つけたので個人的な意見を書きたい。

 

www.rieti.go.jp

 

なぜ自分を愛することと感情を感じることが同義なのか

自分を愛することと感情を感じることがなぜ同義なのかについて、2人の著作を読んでの私の理解は次のとおりである。誰しも幼かった頃に他者(特に親)から無条件に愛されようとして愛されなかったトラウマ的な経験を持っていて、その時に感じた怒りや悲しみや恐怖といった感情は、本人が意識的には覚えていなくても、自分の中に記憶されたままになっている。大人になった自分が感じる怒りや悲しみや恐怖は、子供の頃に愛されなかった自分が表面化したものであり、子供の自分の比喩である。あらゆる感情を無条件に感じることは子供の自分を完全に受け入れることと同じである。

前回の記事で「幼い頃にありのままの存在を認めてもらえなかったから」と書いたが、具体的に言い換えると親が子供の感情を理解しなかったということだろう。

 

donbeitabetai.hatenablog.com

 

ではなぜ親は子供の気持ちを理解しなかった

のだろう。

 

それは親も同じく、幼い頃に感情を理解してもらえなかったからだ。

 

その根本には子供の怒りや悲しみや恐怖を抑圧するという親の過失がある。

 

それは親が自分自身の怒り、悲しみ、恐怖を抑圧するのと同義だ。

 

感情を理解してもらえないことが続くと子供は感情を押し殺すことがクセになり、それが成長するにつれて以下のような悪影響に繋がると思っている。

■感情を押し殺すことがアイデンティティに組み込まれる

■自分のしたいことがわからない、相手と共感が出来ない

■押し殺された感情を抑えるために、周りを否定する

 

親に感情を押し殺してるときだけ愛されたので、生きるために感情を押し殺してしまう。

誰しも感情を抑えるときはあるだろうけど度が過ぎているのだろう。0である。

 

感情がない人は共感が出来ないので感情がない人としか関わることが出来ない。

好きなもの、嫌いなものがわからない人と関わるすべはない。

共感によって満たされるものが満たされない

 

自分の感情がないのでやりたいことがわからず(アイデンティティが不安定)「世間で価値があると言われているもの」で満たされようとする。

場合によっては「家族」という価値観に従って結婚をする。

 

そして子供が出来ると自分の押し殺された感情が子供の感情を否定するのだ。

自分の存在を肯定するために。

 

前回の記事で書いた「プライドが高い」の項目も似たような特性だと思う。

 

じゃあこれらを踏まえてどうすればよいか。

 

やはり自分の感情に気づいて認めることだと思う。

「ある人と仲良くなりたいならちゃんとアプローチする」、「行きたい場所があるなら行く」

傷つくことを恐れずにやりたいことをやればよい。

 

そしてやりたいことをやるには相応の努力が必要ということなんだろう。

 

自分の感情を認めて「今を生きる」努力をしていないと周りを否定したり、過去を恨んだり、あるはずもない未来の妄想に取り憑かれてしまうんだろな。

 

無条件の愛情≒今の感情を認める≒今を受け入れるだと思っている。

 

無条件の愛情とは誰しもが持ってる「自分の感情」のことを言ってるのかもしれない。

もっと言うと"他人と共感出来る感情"に人としての最低限の価値があるのかも。

 

前々回の記事に書いた通り、自分の場合は"色んな文章から自己分析を行って今を受け入れた感覚"が無条件の愛情の代わりになってる感じがある。

donbeitabetai.hatenablog.com

 

感情は未だに不透明なんだけど理性的には理解出来てるというか。

 

焼きたてジャぱんの太陽の手と太陽のガントレットみたいだね。

 

 

ADHD、アダルトチルドレン、愛着障害、鬱で苦しんだ末に見つけ出した回答(仮)

記事の要約

表題のことでずっと生きづらかったけどなんとなくその原因がわかってきたので整理するための記事

結論から言うと表題の苦しさは「幼い頃に無条件の愛情を体験していない」がすべての原因だった。
幼い頃、親にありのままの自分を認めてもらえずに過干渉をされたり我慢を強いられた歪な愛情関係が現在の周りとの関係に悪影響を与え続ける。
note.com

2015年

心療内科に受診

昔からずっと感じていた"漠然とした不安感"や"慢性的な疲労感"といった大きいものから"人と上手く話すことが出来ない"、"人の顔色ばかり伺う"といった小さなものまで、よりどりみどりに蓄え続けたしんどさが爆発し憂鬱状態になった。

もうこれは鬱に違いないと藁にもすがる思いで心療内科に受診したが、5分ほどのカウンセリングとロト6みたいなチェックシートを塗りつぶした結果ADHDだと診断された。
先生曰く「注意力不足や衝動性により人とコミュニケーションが取れなくなってる」とのことだったが、落ち込むよりむしろ今までの悩みを説明してくれる病名があったなんてと少しスッキリした気持ちになったことを覚えている。
(先生の高圧的な態度が気に入らなかったのでその後は通院せず、ストラテラという見た目が不気味な薬も処方されたが学生の自分にはクソ高かったのですぐに飲まなくなった。てかコーヒーがぶ飲みして中枢神経刺激したほうが効果があった)

そこからも社会不適合者丸出しな人間関係が続き、そのたびにADHDの自分はゴミであると言う感じで元々米粒以下の自己肯定感はさらに低くなっていった。

2018年

愛着障害の概念を知る

ADHD関連のことをネットで調べていたらあるブログから愛着障害という症状があると知った。
愛着障害とは簡単にいうと「何かに縋らなければ生きられない」体質になってしまうことで、母親との関係に問題があることで発症するというのだ。
このとき初めて家庭環境に問題があるのではないかという視点を持った。
過去を掘り返した今思い返すと問題だらけだったのだが、自身の家庭環境は問題がひた隠しにされて健全を装っていたのでこのときまで本当にわからなかった。
majikuzu.doorblog.jp

2020年

心療内科にカムバック

過去のトラウマから自己肯定感が低くなった人間が何をするかご存知だろうか。
不安感、欠乏感を埋め合わせるために高い理想を作り、際限のない承認を求めるようになるのである。
その理想が高すぎるためたとえ褒められても、表彰されても"当然"と思うか、自己肯定感が低すぎるのでその評価が信じられない状態になった。
歪な人間関係で傷ついたトラウマからすり減った自己を埋め合わせるように理想の自分が肥大化してしまった状態と思われる。
note.com
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承認を求めて高ストレスな環境に身を置いたことでトラウマのフラッシュバック、自己否定の幻聴まで聞こえだしてノックダウン。鬱状態になり心療内科にカムバックすることに。
今思い返すと自分にとって高すぎる理想に追いつくことが出来なくなって絶望してしまったのかなと思う。
eggs.g.dgdg.jp
note.com
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このときはもう何もかもやる気が起きなくなって3ヶ月間ほぼ寝ることしかしてなかった。
たまに無神経なやつが"しんどいときは寝るだけでいいんだよ"とか言ってるが本当にしんどいときは寝ることが出来ないだなとこのとき知った。

2020年

酵母マンさんのnoteを知る

少しずつ体調が良くなって愛着障害について調べてるうちに酵母マンさんのnoteを知った。
アダルトチルドレン愛着障害の克服記録をまとめているマガジンでなんと無料公開しているらしい。
酵母マンさん自身が克服にお金がかかることに腹が立ったことからのアンチテーゼとのこと。本当に感謝しかないですね。)
このマガジンには本当にお世話になった。自分だったらこんな考えには人生を3回やり直してもたどり着けなかったと思う。
note.com

このマガジンの肝はノート療法というもので、アダルトチルドレンの症状である「親や周りの人との関係の中で依存対象に縋るために"理性"が"感情"を抑圧した」経験を振り返り、ノート上で"理性"と"感情"の認識を埋める作業を行うものである。
note.com

完璧にやばいノート

このノート療法は辛かった。
とにかくトラウマを振り返ることがしんどい。
怒りでノートをボールペンで突きまくったり、急に涙が出たりしてボロボロになりつつも最終的には依存体質の根源である親に対する憎しみでいっぱいになった。
が、これも酵母マンさんがすでに経験したことらしい。次のステップ、親の追体験に取り掛かった。
note.com

ここは自分の場合酵母マンさんと同じ体験をすることが出来なかった。
確かに親も同じ苦しみを持っていたことはわかるが変わらず憎い感じ。

その後はマガジンをすべて読破し、すっかり自己否定をしなくなったので良い感じで過ごせていた。
("漠然とした不安感"や"慢性的な疲労感"は残っていた気がする)

2021年

小野ほりでいさんのnoteを知る

厳密にいうと酵母マンさんのnoteと平行して読んでいた。
酵母マンさんのnoteが哲学的に対して小野ほりでいのnoteは精神分析的であるが言ってることは共通してるなと感じていた。
note.com

そしてここからが最近の話である。
前から感じていた"漠然とした不安感"や"慢性的な疲労感"、"親への憎しみ"が強くなってきたのである。
きっかけは最近生活環境がガラリと変わったことからだと思う。

ちょうど小野ほりでいさんのマガジンが終わったこともあり、ここに解決のヒントがあるのではと再度マガジンをすべて読み返したところ腑に落ちる回答が得られたのでここにまとめたいと思う。

親は自分を愛していなかった

自分の記憶と紐付けてもそう思える。
自分が幸せだと親が不満そうで、不幸だと親が笑顔だったからだ。
資格に合格したり、自分が新聞に載ったりしたときも褒めようとはせず興味なさげで、スキーで遭難して泣きじゃくっていたときは笑顔でバカにしてきた。
親は子供の幸せなどどうでも良くて一緒に不幸になりたかったのだ。
note.com

遊びに行きたかったのに習い事をさせられたり勉強させられたりもした。
言う通りにしないとヒステリックになったり、不機嫌になったりしてその度ビクビクしていた。
これらは自分の叶わなかった"願望"やその逆である"我慢"を子供にも強要して歪な愛情を注いでいたと言えるんじゃないだろうか。(感謝の搾取ともいえる)
note.com

つまり子供を過去の自分と同じ環境に起き、そこから感謝を奪って自分の人生が間違っていなかったと肯定しようとした。
子供に自分の問題を押し付けて自身で問題に対処することを諦めてるのだ。自分をコントロールして問題に対処出来ないから。
その問題自体が自身の価値判断により起きた問題ではない"社会からインプット"されたものなので言ってることが矛盾だらけなのがまた困ったところである。
note.com

親は自身の親から受けた体験を再現してトラウマを克服しようとしていたのかもしれない。
note.com

邪推かもしれないけど両親ともに"結婚"というステータスに魅せられて"結婚すれば自分は救われるかもしれない"と考えていたのかもと思った。
(そうなると両親は愛し合っているのかという前提に疑問が出てくるけども。)

親のことばかり書いたが自分も親のことを気遣うことなく都合の良い扱いをしていた。
親が自分を理解しようとせずに我儘を押し付けるのになんで自分だけが気遣わないといけないんだって気持ちからである。
良くも悪くも甘やかされて育てられた。お互い様って感じ。
note.com

理性的に整理出来たおかげか今のところ親への憎しみは和らいでいる。
だが完全に許せるまでは時間が掛かりそうだ。

無条件の愛情について

色々調べていると自分のような悩みを持つ人は大多数の人が親から受けている無条件の愛情を受けていないらしい。
しかしフロムの愛するということや酵母マンさんのnoteを読んでもその無条件の愛情についてどういったものかイマイチしっくりと来ていなかった。
母性的愛情?なんだそれ

小野ほりでいさんのnoteを読んでいるときに気になる単語があった。"役に立たない自己に対する愛情"が無条件の愛情である。
確かに知り合いが用事もないのに話しかけてくれると嬉しいよなと思った。
そこで"役に立たない自己に対する愛情"とはなんなのかを考えていてふと気づいた。
「あ、そうか役に立たなくても生きていいのか」
社会の役に立たなくても、親の役に立たなくても、友達がいなくても、クズでも"精神的には"別に生きていいのだと気づいた。

フロムの言い方でいうと無条件の愛情、愛着障害の考え方でいうと安全基地に当てはまるのかもしれない。
まず言葉に抽象化することが野暮なのかもしれない。感覚的なことである。
自分の感覚では「役に立たなくても生きていい」という言葉よりはnoteや本で自分を自己分析して論理的に出した「役に立たなくても生きていい」という回答が支えになってくれる感じがある。
(今酵母マンさんのnote見たらこちらにもちゃんと書いてあった。書き方は違うがたぶん同じ意味"ただ、そこに「在る」だけ。")
note.com

そんな都合の良い話があるかと思うが"漠然とした不安感"や"慢性的な疲労感"がこの「役に立たなくても生きていい」の気づきのあとなくなった。
無意識内にあった価値観(~しなければならない)から開放されたのかそれともプラセボ効果なのかもしれない。詳しくはわからないが良い感じで過ごせている。

自分も親のようになりかけている

クセ一覧を見てもらえればお分かりの通り、未だに親から精神的自立が出来ていないせいで孤独、社会不適合者まっしぐらである。
eggs.g.dgdg.jp

他人は基本的に与えなければ何も与えてくれない。客観性が欠けてるとそれがわからない。
甘やかされたせいでバカみたいに愛情を求めているんだろう。
どの人間関係も境界が曖昧なズブズブの関係になってしまう。
いや、正確にはズブズブの関係になる人としか関われないという言葉が正しいのかもしれない。
生まれてから続く歪な人間関係に疲れ果てて"主体的に人と関わりたい気持ち"が完全になくなってしまい、寄ってくるのが支配的な人間ばかりになってしまったからである。そうなるともう精神の安定を保つには人と関わることを極力避けるしか方法がなくなってしまった。

また辛いのが自分のような人間は社会の中で負の要素を集める避雷針のような役割を与えられることが多いことだ。
顔色を伺いすぎてしまう問題の責任意識が曖昧な人間は他人が犯した罪の責任を負い、依存心が強く意志が弱い人間は罪を押し付けられたり他人の優越感のために蔑視の対象になる。
つくづくクソだなって思う。

問題はまだまだ山積みなのだがひとまず今回の記事を機に過去のことで悩むことを止めることにした。

なぜなら小野ほりでいさんのnoteを読んでこれ以上問題に気を取られていたらこれだけで人生が終わってしまうと思ったからである。
note.com

変わらず社会不適合者だがとりあえず前に進むこととし、クセ一覧に細分化した問題でまたミスったらそのときその部分だけ対処しようと思う。

自分はカウンセラーになりたいわけでも哲学を掘り下げたいわけでもないのでここまでにしておく。

まとめ

1.親に仕組まれた愛着障害、ACを乗り越えて無条件の愛情「役に立たなくても生きていい」の感覚を知る
2.生きる存在不安を自作の運命感(家庭環境、学生の頃から積み重ねたトラウマ)、ADHDASDなどの症状、他者の価値観に求めるのではなく、自ら存在不安の原因(欲望)を見つける
アドラーの言う"やりたいことが先にあってそれに合わせた動機を求める"もこれに当てはまるのかもしれない。
(昔読んだ"嫌われる勇気"にはトラウマを否定するという見出しで書かれていたがこれは傷ついた過去を否定することにも繋がりかねないので自分はこの書き方が嫌いである。"本当にやりたいことと思っていること"が無意識のうちに刷り込まれた他者の欲望を満たすためのものだとしたらその事実に気付き、意識的に違う他者からの欲望を選択する機会があってもよいのではないだろうか)
3.目の前の小さな不安(欲望、問題とも呼ばれる)と向き合って対処していく
洗濯物を畳む、目標に向けた日々の勉強といった小さなものをサボらずこまめに対処していく。負債にしない。
●気をつけること
・日々出くわす小さな価値も当然と思わず感謝する
・自分、他人の不完全さを許容する
・周りへの否定的な目線を止める

基本的な生存戦略として"親や他人に期待することを止め、人間関係以外のところで役に立てるようにスキルを磨きつつ精神的自立を目指そう"と思う。
"精神的自立"と"経済的自立"は別問題でありこの新自由主義で生きていくためにはやはり"何かしらで役に立つ"ことが必要不可欠だからである。
今回色々と勉強して社会に薄っすらと蔓延る"役に立たない人は死ぬべきだ"の思想はこの2つの問題を混同してるのかもしれないと思った。

これから人と関わることが出来るようになるのかはわからないが「役に立たなくても生きていい」の感覚を持ってスキルを磨き、"経済的自立"が出来てさえいればとりあえずは生きていけるんじゃないかと目論んでいる。

また自らの主体的な部分、欲望に関していえば今からやりたいことを見つける必要はなさそうである。
なぜなら親や他人に依存するために感情の抑圧を繰り返した経験の中にも、時々自分の感情に基づいて行動した経験を持ち合わせていたからである。
これは誰しもそうなんじゃないかな。

今後はその部分を大切にする生き方をすればいいのではないかと思う。

最後にADHDASDHSPなどといった謎の病について個人的な考えを述べるとこれらが起こす症状よりもそういった症状を持つ自分は生きていいのか不安を持つことが悪質なんじゃないかと思う。
昨今センセーショナルな見出しでこれらを取り扱う記事がとても多いが、さも"完治しない不治の病"かのようにこの不安を掻き立てるとてもおせっかいなものに感じる。
別にかっこいい文字で病名をつけなくても、症状によるメリット、デメリットを加味した上で有効活用したり対処するくらいの心構えでいいんじゃないだろうか。

最後に

※もしこの記事を読んでマネしてみようと思う人がいたら下記の順番をおすすめする。
酵母マンさんのnote読破(eggs.atushiさんのページ) ⇒ 小野ほりでいさんのnote読破

まずノート療法で過去の感情を成仏させ、そのあと理性的な知識を補完すると良い気がする。
(先に知識をつけてしまうとノート療法の際、余計な考えが混じるため)
ノート療法にはeggs.atushiさんのページも参考になる。
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他にも色んな本を読んだがこれらが腑に落ちた考えである。

実体験として短期間で自分の思考を変えるのは劇的に良い方向に進む場合もあればその逆で劇的に悪い方向にも進むものだと思った。
人によってトラウマの度合いは違うし、無理に掘り返すことが精神的に良くない人もいると思われるので注意して欲しい。
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クセ一覧

●わかってほしい症候群
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●親への万能感を他人にも求めてしまう
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●周りの人を攻撃してしまう
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●自分を責める
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●なぜ孤独を好むのか
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●他人の価値観に乗っかり誰かを批判することで幻想の優越感に浸る
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●他人の価値観に乗っかり自分の不幸を正当化する
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●判断を他人に委ねてしまう
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●だめな人を演じる
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●理想の自分を演じる
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●仮初の自分を演じる
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●なぜ幸福な状態だと落ち着かないのか
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●環境リセットグセ
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●自分の気持ちを伝えられず不機嫌になってしまう
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●過干渉について
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●相手に理想のイメージを作ってしまい損なわれると幻滅する
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●不幸を「何か」で肯定してしまい変化できなくなる
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●傷ついたことを認めない
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●人の顔色ばかり伺う
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